オーランド56日目 〜「人工的」を考える

私が事務局をしているメーリングリスト( http://www.cs-t.jp/ppBlog/index.php?mode=pages&aim=aboutus3 )にて、「米国の観光は人工的だから…」というコメントがありました。
私も、同様の印象を持つのですが、ふと、「人工的」ってどういうことなのだろう。と疑問に思いました。
人工的というのが、必ずしもネガティブな意味を持つわけではないだろうと。では、ネガティブな意味をもつ「人工的」とは何なのか。と思ったのです。
人工の対比語は、自然でしょう。つまり、非自然≒人工と思って良いと思います。
そう考えれば、人が作り上げたモノは、すべて、人工ですから、歴史や文化または農村景観のようなものも「人工的」なものとなります。でも、これらのものは、観光の世界で、必ずしもネガティブに捉えられるものではない。
人工的という言葉が、ネガティブな意味を含めて使われる場合、その背景には、3つの意味が含有されているのではないだろうか。

  • 自然を否定している、征服しようとしている
  • 自然を劣化コピーしている
  • 自然を超越している、摂理を逸脱している(不自然)

自然の否定、征服することに対する価値観の変化

ここフロリダは、もともと蚊が多量に発生する湿地帯であり、人間が暮らすには不適な場所であった。ここに、多量の資本と労力、時間が投入されることで、現在のフロリダがある。なお、ワイキキやラングドッグルシオンも同様の生い立ちを持っている。
こうした「力業」による開発は、人類ならではの英知と考えられる一方で、釧路湿原に象徴されるように、人間の狭い価値観(主に経済面)だけで地域の価値を決め、改造してしまう事に対して、否定的な意識も出てきている。

自然の劣化コピーに対する嘲笑

自然を否定したり、征服するのではなく、むしろ、自然の魅力を人工的に再現しているものの、それが劣化コピーにすぎないことに対する嘲笑というのもあるだろう。
人工降雪機によって雪の降らない地域に建設されたスキー場や、造波施設や海水によって海を再現したプールや体験施設、生態展示に取り組む動物園、水族館などである。養殖物よりも天然物を選択する心理とも共通するだろう。
また、対象は自然ではなく文化ではあるが、外国村なども同様に捉えられる場合もあろう。(人工的なモノの劣化コピー)

自然の摂理を逸脱していることに対する違和感

蛇は自然の生き物であるが、これを嫌う人が多いのは、手足に相当する部位が無いことに対する嫌悪感があるということを聞いたことがある。つまり、通常、生き物は4本足というようにパターン認識をしているために、このパターンにあわないモノに対して嫌悪感を覚えるというのである。
こうした心理、そのままということではないが、本来、自然に存在し得ない大きさや、色合い、形状といったものに対する違和感、嫌悪感というのもあるのではないか。
忽然と存在する超巨大なホテル(樹木などの高さを遙かに超える)、派手な彩色の看板や施設、直線的で無機質な構造物などである。
これは、「征服」とも近いベクトルにいると思うが、現在の(アメリカの)デザイントレンドは、アースカラーを利用して自然との調和を演出する方向にある。すなわち、「征服」ではなく「一体感」が志向されている。しかしながら、規模は巨大であることは少なくなく、自然的なのだが、何かが違うという印象が強い。
参考) http://picasaweb.google.com/g.youichi/BestOfBeavercreek200307#4962011462239125522

結局は作り込みの深さの問題なのかもしれない

ただ、これら3つのネガティブ要素は、万人がネガティブに感じるわけではなく、個人差が大きいだろう。
自然地域の開発において、ROS(Recreation Opportunity Spectrum)という考え方があるが、私などは(軟弱なので)、手つかずの自然よりは、適度に整備された地域を選択したいグループである。
参考) http://www.ffpri.affrc.go.jp/shoho/n135-99/135-6.htm
また、黒部ダムとかベイブリッジなどの土木施設や、軍艦島のような産業遺産などは、「自然の征服」タイプであると思うが、広い人たちから人気を集めている。
劣化コピーにしても、実際に、その自然や動植物、文化に触れられるところまで行くのが難しかったり、そこまでの(コストを払うほどの)意欲が無い人たちにとっては、ありがたい存在であろう。
摂理からの逸脱にしても、蛇が嫌いな人がいる一方で、大好きという人も居るように、これは多分に経験や価値観による部分が大きい。
では、なぜ、人工的と聞くと、ネガティブな印象を持ってしまうのであろうか。
これは、実態として、人工的なものの水準が低いからではないだろうか?
特に、観光需要の喚起や受け入れを目的に人工的に作られたものは、底が浅く、付け焼き刃的なモノが少なくない。これに対して、自然景観であったり、(観光とは関係無しに培われてきた)文化や、歴史資源がもつ魅力は圧倒的である。
さらに、人工的なモノは、商業主義に直結し、サービス内容が伴わない足元を見た値付けとなっている場合も少なくない。これは、前述の劣化コピーと関連して、胡散臭さを増幅させる。
こうした実体験を通じて、私も含む人々の中に「人工的なものはいまいち」という考えがすり込まれているのではないか。
ここで考えたいのは、WDWなりTDLは成功している一方で、アメリカにも日本にも駄目なテーマパークは沢山有るということである。また、超がつくほどの人工的な町であるラスベガスは成功しているといってよいが、その他に、ゲーミングで海外からも集客できるような地域は無いと言って良いだろう。
これに対し、(観光とは関係無しに培われてきた)歴史文化であったり、特異な自然景観、動植物が資源となって集客している地域はとても多い。
すなわち、人工的な取り組みによって閾値を超えることは、非常に難しいと言うことだ。が、一方で、超えることさえ出来れば、圧倒的な強さを持つことにもなる。(なにしろ、他はまねできないのだから)
参考) http://www.jtb.or.jp/investigation/index.php?content_id=215

日本とアメリカ、そしてヨーロッパ

ただ、アメリカで暮らしてみて思うのだが。この国は、基本的に歴史や文化が希薄(NYCなど一部の都市には存在する)であり観光の資源となりにくい。自然についても、そもそも、自然地域の方が圧倒的に広い国土であり、かつ、それらは無料または非常に安価に利用、体験することが可能である。さらに、貴重な自然については保護規制も強いために、観光事業(ホスピタリティインダストリ)の資源としては活用が難しい。
結果、(困難な道であっても)人工的な開発によって魅力を創造しなければ、事業を成立し得ないというヘビーな事業環境におかれていると言って良いだろう。 もしかすると、このことが、純粋に経営能力(ホスピタリティ・マネジメント)を高めるということに繋がったのかもしれない。
これに対し、日本やヨーロッパは、豊富な歴史文化を持っており、これらがそのまま、もしくは、少しのアレンジで強い魅力を発揮することが出来る。さらに、自然についても、様々な歴史的な経緯や規制、権利関係などによって、人々と自然との距離が遠い傾向にある。
よって、アメリカのように、ゼロベースで人工的に魅力創造に取り組むよりも、それらの資源活用を主軸に置くことが合理的な選択となっている。結果、個々の事業者の経営能力よりも、地域資源のマネジメントへの志向が強くなったのかもしれない。
もともと、人工的というのは、英語では、artificialness である。語源は解らないが、冒頭にartと入っていることを考えれば、芸術文化などと近い関係にあることが推測できる。 すなわち、人工的なモノとは、芸術文化と同様に人類が生み出してきた創造物であるとも考えられる。そうした事を考えれば、人工的なモノを、いかに後生まで残せる水準にまで高めていくのか。それが、我々には、求められているのかもしれない。

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