このところ、電子出版に関する記事が多い。
これは、この春のiPodによって、本格的に日本にも電子出版ビューワーが入ってきたこと。
これをチャンスと見た、または、驚異と見た多種の事業者(個人を含む)が参入してきたこと。
さらに、そうした中、自炊なる、個人レベルでの電子化も一気に普及してきたこと。
などが理由としてあげられるだろう。
その際、目に付いた記事で、以下のようなものがあった。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1008/24/news020.html
うーん。言っていること、目指していることはとてもよく解る。でもね。とも思う。
なぜなら、こうした変化の際には、むしろ既存コンテンツを持っていることが、足かせとなるからだ。
思い起こせば、1995年、96年頃。ネットが普及し始めた頃。ネット上にはストック情報など存在しなかった。
ネット上の情報の多くは、「今」作られた情報であり、フロー情報でしかなかった。
さらに、その内容が稚拙なものであったことは、改めて述べるまでもない。
が、ネット上に可能性を見た事業者や個人が、フロー情報を積み上げていくことで、いつのまにかストック情報としての意味もネットは含有するようになった。フローだって、5年、6年、積み上げていけば、ストックになると言う事だ。
さらに、多様な主体がおおざっぱに情報を構築するというネットのスタイルが定着してしまうと、ネット以前の、特定の主体がガチガチに作り上げたコンテンツは異質なものとなってしまい、例え、それをネットに接続、公開したとしても、さほど有効なものとはならない。既存コンテンツは武器にならないのだ。
ハリウッドが強い影響力を持つのは、新しいコンテンツを作り続けていて、かつ、DVDやブルーレイ、さらには、ネット配信など、新しいメディア、流通チャンネルへ適合し続けていることがあるだろう。特に米国内では、ネットとの融合性は高い。そのため、ネット時代になっても、古くならないし、キラーコンテンツとしての存在感を維持し続けられている。過去の作品の著作権をもっているから「だけ」ではない。
また、ネット以前のコンテンツが使い物にならないのは、ネットを想定した権利処理がされていないことがある。これは、著作権法のことだけではなく、ネットというグローバルな存在に適用していないのである。日本というクローズドな環境に最適化されているコンテンツ、その権利、その流通販売体制は、海外展開へのハードルがとても高い。
好むと好まざるとに関わらず、グローバル化の動きは強力に存在する。
その際に、ローカルの「高質さ」は、むしろ足かせにしかならない。
それは、携帯電話を含め、様々な製品、サービスが証明してきている。
「原稿用紙のように縦横の文字数が決められないワープロは日本語ワープロではない」と言って非難されたMS-Wordが生き残り、一太郎は死滅していることも好例だろう(現在のWordは、文字数設定できるが、この機能を使っている人は、どれくらい居るのだろう)。
少々の不便さ、欠点があっても、それを上回る流れが出来てしまえば、そこに収斂する。収斂の後、ローカライズが改めて行われていくというのが、ネット後の世界の特徴だ。今や、WEBでも、ふりがなをふることが出来るようになっているのも、その一例だろう。
電子出版に話を戻そう。
こうした流れをみれば、「過去コンテンツを持っている」という事が、さほどメリットにはならないし、むしろ、様々なしがらみから、供給者側の論理が優先されるなど、デメリットにすらなりえることが指摘できるだろう。
仮に、DNPの動きが、米国のバーンズ&ノーブルを買収するとか、中国での書店チェーンを構築するといったものであったとしたら、5年後、10年後に大化けした可能性はあったかもしれない。でも、今更、「黒船来襲」に対抗して、国内連合を作るという発想をすること自体が、残念。