もう、選挙も終わってしまいましたが、書き始めちゃったんで、提言まで。
マクロ的には景気回復しているのに、個々人に閉塞感がある状況は、なぜ起きているのか。それを解消するにはどういう対応が必要なのか。
ここからは、エビデンスに基づかない主観となりますが、閉塞感の原因は、サービス経済になっているのに、いろいろな「常識」が工業社会のままであることにあります。
例えば、なぜ、保育園や幼稚園、もっと言えば、小中学校は、月金稼働が基本なんでしょうか。
既に過半の就業者がサービス業で働いており、土日が休みと必ずしも決まっていません。
NHKの調査に寄れば、有職者は国民の55%でしかない。さらに、休みが曜日固定となっていないのは有職者の内33%に登っています。つまり、国民の73%(非・有職者45%+有職者55%×非・固定曜日33%)は、仕事によって休日が規定されていません。
さらに、日曜日が固定休なのは有職者の63%、土曜日は48%とあります。固定休ではその「固定」曜日が日曜日and/or土曜日に集中する傾向はありますが、国民全体として見れば、日曜日しか休めないのは国民の35%、土曜日は26%程度だとも言えます。
にも関わらず、いろいろな制度設計は月ー金を平日とし、それを基準に行われているのが現実です。
さらにいえば、なんで、1日の基準労働時間は8時間なんでしょう。
労基法では「1日8時間を超えてはいけない」といっていますが、サービス業のように繁閑がある業務であれば、4時間×2カ所(就労場所)という働き方もあるのではないでしょうか。
ただ、現実的に、そういう掛け持ちでの就労は、いろいろなハードルがあります。例えば、4時間勤務では、いわゆる正規雇用とはならないし、結果、保育園などのポイントも高まらず、社保なども枠外となりがちです。ダブルワークに対する社会的な認識も「大変だねぇ」という感じ。
サービス経済での社会を端的に言えば「非同期で非連続的」だということです。
誰かが働いている時間に休んでいる人が居るのは当然だし、その単位(半日単位、日単位、数日単位)も人によって様々です。
また、経験年数があがることで効率的になる(正確には累積生産量が高くなると、生産コストが下がる)という経験曲線は、古典的な農水産業、製造業では成立しても、市場環境の変化の激しいサービス経済では、ほとんど成立し得ません。
このことは、社会人になってからの「学習」が重要であることを示していますが、企業の人事評価システムや退職金制度などは、途切れない勤続にボーナスを与える形式であり、例えば、スキルアップのために社会人大学院に通ったり、他の職種を経験したりという事をやりにくい。
サービス社会においては、こうした「非同期・非連続」を前提とした社会制度設計が必要でしょう。
例えば、学校の休みも土日にこだわらない。小学校には学童クラブを「必ず」併設するといった事で、親と子供の繋がりを良くする。
社会保険などは、社負担分は給与に転換した上で、個人レベルの保険制度とする(複数の勤め先があっても統合)。勤続年数に対する累進的な退職金は止める(給与に転換)といった事で、ダブルワークや転職、休養に対するペナルティを軽減する。
これらは、「常識的な」生活習慣を破壊することになるので、反発も多いと思います。
が、その常識の多くは、実は、産業革命後の100年間程度に作られたものです。農業社会では土日ではなく、天候で就労環境は決まっていましたし、商業従業者の休みはお盆と年末年始程度でしたので。
また、こういう考え方は、いわゆるダイバーシティの考え方にも繋がります。
私が、米国滞在中に強く感じたのは「自立的な自由さ」です。基本、他人に迷惑をかけない以上、個々人の動きは自由であり、他者も気にしません。例えば、宗教によって休日は異なりますが、別に、統一しようとはしません。それぞれが、自立的に有給を取るだけです。
そもそも、就労条件も個々に違います。どういう権限、責任、報酬で働くのかというのは、契約で決められる話です。その際、人種や年齢、性別、家族構成、趣味嗜好、障害などは聞く事すら禁止となっています。
その分、業務上のパフォーマンスだけで評価されますので、ある意味、厳しい社会だとも言えますが、非同期・非連続な社会に適したシステムだとは言えます。
一方で、トランプ大統領が誕生するように、そのアメリカでも、経済社会の変化に追随できない人達の不満は大きくなっています。
サービス経済の中で、どういった社会制度が暮らしやすさ、働きやすさに繋がっていくのか。
真剣に考えていくことが求められているように思います。