こちらにきて3ヶ月。
論文などを読んでいると思うのは、「言葉の定義」の重要性である。
論文は、それ1つで完結するモノでは無く、様々な人たちが、様々に研究した物が積み上がって、大きな知見を創造していく物である。そのためには、それぞれの「研究者」が対象としている事象にズレがあることは許されない。
そのため、くどいくらいに、それぞれの論文では、言葉の定義が繰り返される。
正直、その作法には、うんざりすることも多いが、同時に、とても重要な事であることも実感している。
それは、観光分野、ホスピタリティマネジメント分野における用語に関して、日本とこちらで異なることが少なくないからだ。
日本での英語は、大きく3つの種類があると思う。
- 日本でも米国でも、概ね同じ意味で使われているもの (例:ツーリズム=観光)
- 日本独自の用法になってしまっているもの(例:ホスピタリティ=おもてなし)
- 英語には存在せず、和製英語となっているもの(例:ATA、ニューツーリズム)
もちろん、日本語と英語では、その成り立ちも、背景の文化、風習も異なるため、完全に英語を日本語に翻訳することは出来ないのだろうと思う。また、日本語自体も、その意味、とらえ方は、人によって異なる物は少なくない。さらに、英語も活きている言葉であるから、時代によって、その意味合いは変化していくことにある。つまり、完全に 日本語=英語とはならない。
ただ、これは、日本語だけでなく、韓国語でも、中国語でも、フランス語でも同様である。
重要な事は、100%の合致でなく、その用語の意味合いを、その背景や実情を含めて理解し、適合度の高い母国語に置き換えることなのだと思う。
海外から用語が入ってくると、ついやってしまいがちなのは、「2」のパターン。
特に、多いと感じるのは、その「語源」に回帰して、そこから独自に意味合いを設定してしまうタイプである。特に、新しい概念を伴って入ってきた新語では多い。これは、原理主義のようなやり方であり、最も適切のように感じられるが、観光分野のように「動いている社会事象」においては不向きなやり方である。なぜなら、言葉は、必ずしも「語源」から創造されるものではないからだ。
これは、日本語でも同様だろう。毎年のように、流行語が作られるが、これは「語源」にのっとったものだろうか? 日々の会話の中から生まれる流行語、新語は、語源に厳密に立脚したものでは無く、その時の社会観や文化によって定義づけられるものであろう。
また、統計をやった人間なら解るだろうが、クラスタ分析や因子分析などを行う事で導き出されるグループには、その特性をわかりやすいように、呼称をつける。これも、特徴をしめしているだけのものであり、語源からの意味と、そのグループ特性が完全に一致するわけではない。たどるべきルーツは、語源ではなく、統計分析の諸結果となる。
つまり、動いている分野に属する用語については、語源を当たるのではなく、その用語が、現在、どのような位置づけで使われているのかという「背景」を理解し、整理していく必要があるのだ。
実のところ、本国でも、実は明確な定義が無く、ふわふわとした雰囲気で使われているものもある。そうしたものを、日本において再定義することは、もともと、不可能なことであり、「ふわふわしている」ということを含めて活用する必要があろう。
さらに、問題を複雑にするのは、一度、日本語になった英語が、その他の言葉と同様に、日本語の中で変容していってしまうことである。もともとの(日本語での)定義が、米国のそれとずれていることに加え、その後の変容が生じることで、本来の英語とは「似て非なる」全く異なるものになってしまう事になる。
もともと「ふわふわした」定義の用語であれば、早晩、消えていくので問題とはならないが、それが、しっかりとした言葉として、社会や研究分野において根付いていった場合に、こうしたずれは、多くの混乱を招くことになる。「ホスピタリティ」などは、その好例だろう。
これを防ぐには、用語定義に神経質な学術論文の世界で、常に、定義に注目し、その同調を図っていくことが必要ではないだろうか。
もう一つ。「3」のタイプは、英語の体裁ではあるが、実際には、それに対応する英語は無いと言う不思議な存在である。もっとも、和製英語自体は、そう珍しいモノでは無く、漢字、ひらがな、カタカナ、そしてアルファベットと、なんでも扱うことの出来る日本語の柔軟性のなせる技といえるだろう。
ただ、「研究」の世界では、英語なのに、英語には無い。という用語は、そもそも評価のしようがない。さらに、他の和製英語と同様に、多くの日本人はそれが和製英語であること自体を知らないため、その意味を深く考えたり、再定義するといった事について思考停止してしまう。
言葉は、社会事象の変化によって、常に新しく創造される性質を持つため、新語を造ること自体は否定しない。また、カタカナ語の方が、意味合いを伝えたり、既存の用語と差別化を行いやすい事も多いため、和製英語をつくることも悪いことではないだろう。
問題は、そうして創造した言葉を、国内のみでの利用にとどめ、英語圏にて通用するような取り組みを行っていないことである。グローバル化の進んだ現在、日本が抱えている問題は、海外でも同様に問題となっていることも少なくない。そのため、和製英語であっても、必要があって創造された「新語」は、海外においても問題の認識や解決に役立つ概念である可能性は高いのだ。
仮に、用語普及によって、その問題が、海外でも認識されるようになれば、そこに、国際的に知見が集約されることも期待できる。それは、効果的な問題解決に繋がるものである。
単なる流行語に終わらせるのではなく、その背景を含めた定義づけを、海外に向けてしっかりと発信することで、和製英語を、普遍的な英語としていくことは、とても、重要な事なのではないだろうか。
前述した「似て非なる」意味となってしまった用語も、その変容の理由を含めて、科学的に再発信する事が出来れば、同様の効果が期待できるだろう。
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こうやって書いてくると、対訳辞書が有効なのではないか。と思えてくる。
しかしながら、これも、むずかしいだろう。なぜなら、言葉は活きていて、動いているからだ。
例えば、ホスピタリティという言葉は、米国で、一般的に利用されているが、しっかりとした定義というのは、実は無い。動いている言葉なのだ。
となれば、結局の所、常に動いている「研究」の世界に身をおき、その動きを把握し続けることが、この分野においては必要なのだろう。