日本に帰ってきて、「日本的な議論だなぁ」と感じたのは、今後の方向性として成長を目指すのか、踏みとどまって足場を固めるのか。という議論が多い事。そして、どちらかといえば、後者に同調する論調の方が大きい事だ。
考えて見れば、草食系などというスタイルが、どちらかといえば、新しい価値観として、肯定的に取り上げられていることも、そうした意識を示すものだろう。
確かに、成熟市場、低成長、もしくは、縮小。というように、市場環境は世界的に厳しいという認識は強い。
ただ、米国の場合、そうした「厳しい市場環境」ということを与件にした上で「成長の芽」を見つけ出していこうという意識が強く、低成長の中で甘んじるという意識は感じられない。
リーマンショックの影響は未だに大きい。ただ、その影響に対する認識は、かなり違う印象がある。日本の場合、リーマンショックが、「成長の終わり」を示すものと論じられているが、米国の場合、かつて、何度もあったバブルの終わりの一つという認識に過ぎない。
そもそも、15年以上にわたって、停滞していたのは、日本だけ。その日本としてみれば、「米国もやっとバブルが崩壊したか」という思いはあるが、それは、なんというか、強者をねたむ意識が背景にあるようにも思う。
日本は、長い低迷の中で「もう、成長の余地はないのだ」と感じ、閉塞感にとらわれているなかで、リーマンショックが加わり「日本だけでなく、世界も」と思い込んでいる状況にあるのではないか。
でも、グローバル化が進むなかで、日本だけがルールを変更することは、多大なハレーションを起こすことになる。
確かに、大きな経済成長を目指さない欧州型のモデルもあるだろう。
でも、我が国は、多大な国債発行に頼っていることが示すように、すでに収支が合っていないのである。特に、地方経済については、もともと、高度成長期ですら収支はあっていない。低成長に転換するとしても、その前提は、「自活できる」ことだろうと思うが、現状で、それは不可能なのだ。
さらに、国債発行が「大丈夫」という理由は、国民の貯蓄額が多大にあることとされているが、これは、将来的に増税によって、国民の貯蓄を、国に移管させることで解決できるためと解釈することも出来る。ただでさえ、単年収支が取れていない状態で、増税にて、過去の負債を償還していくことになることを想像してみよう。おそらく、その時には、都市と地方、企業と雇用者などの間に、ものすごい軋轢が生じていることだろう。とても「輝かしい未来」とは思うことは出来ないのではないか?
そう考えれば。少なくても、短期的に取るべき道は1つしか無いと思うのだが。