私は、このブログでも再三、「子供の時からの経験蓄積が、成人後の余暇活動を規定する」と指摘している。
これについては、「体験格差」として教育の側面から論じられるようにもなってきている。
この分析でも指摘されているように、体験(経験)は、世帯年収と強く結びついている。収入が限定されるために親だけでなく、子も「余暇」的な行動、体験を行う機会が乏しくなる。そうした家庭で育った子どもは余暇経験に乏しいため、大人になっても遊び方が限定されてしまう。特に、体を動かしたり、道具の購入や事前学習など相応の準備が必要だったりする「遊び」は、自身が大人になって一定の収入を得たとしても、すぐに出来るものではないため実施することができない。状況によっては、新幹線や航空機に乗る旅行も苦手としてしまう。こうなってしまうと、これらの活動に無関心となる。人は、自分の弱い面、苦手な面を直視せず、自然と、それを避けようとするからだ。
他方、一定の世帯年収の家庭で育った子どもたちは、幼少期から旅行、スポーツ、アウトドアといった余暇活動にふれる機会が多く、一定の経験値をもって大人となる。大人となった後、その活動を続けられるか否かは、自身の「稼ぎ」に影響されるが、「余暇」の楽しさを知っていれば、やりたいという「意思」のもと、支出をやりくりして原資を確保しようとするだろう。
何かしらの行動を行うには、資金と意思の2つが必要となる。格差論だと、前者の資金(収入)に強くフォーカスを当てるが、それは「今」という断面を切り出したものでしかない。実際には、親の資金(収入)が、自身の子供時代の経験を左右し、経験蓄積の差が、大人になってからの意思の差となっていくという時間連続的な関係となっている。
なので、例えば、今すぐ経済格差が是正されたとしても、すでに中高年となってしまった人々が、いきなりスポーツやアウトドアを楽しむようにはならない。生じた可処分所得は、温泉やグルメといった参加ハードルが低く、実施に強い「意思」がなくても実施できる活動を中心に使われることになるだろう。
実際、かつて「2007年問題」として、団塊世代がリタイアすることで、退職金という原資とリタイアによる時間的余裕が生まれることで、余暇市場が盛り上がるとされたことがあった。確かに、中高年層の市場は大きくなり、各地に人々があふれるようになったが、ここで広がったのは、いわゆるマスツーリズムであり、定番とされた地域は脚光を浴びたものの、新しく定番となる観光地や施設、アクティビティが数多くでてきたわけではない。
一方で、若いうちから旅行経験を積み重ねてきた人達は、定番ものでは満足できなくなり、より複雑で深みのある経験をしたいと思うようになる。歴史文化や交流といったキーワードが出てくるプログラムは、その代表例だが、これらを楽しむには一定の知識と、ヒューマンスキル(対人スキル)が必要であり、誰でも楽しめるわけじゃないし、パーソナルな対応となるから当然、体験料も高額となる。つまり、一部の豊富な知識、スキルと所得を持つ人達「だけ」が楽しむものとなる。
余談だが、以前、ニューツーリズムとして、こうした領域の商品開発が志向されたが、そのほとんどが支援制度(補助金)が無くなると同時に消えていった。これは、マスを対象とした設計(価格を含む)だったため、需要とのミスマッチが起きたと考えるのが自然だろう。近年になり、いわゆる富裕層向けとして高額商品が出てきて、それはうまく事業がまわるようになっていることが、その証左といえる。
こうして見てみると経験、意思(価値観)、所得というのは、一定の時間軸の中で相互に関係しながらグルグルと回っていると考えることができる。
その関係性を端的に示していると考えられるのが、学歴・年代別の給与額推移だ。
学業は「積み重ね」である。余暇と学業では、真反対とも言えるが、子供の時からの蓄積が次の経験、意思(価値観)に影響するという点では違いがない。当然、個人差はあるが、より学業に取り組んできた人のほうが、そうでない人よりも学業に関する経験値は高く、視野も広くなっていく。特に、大学、大学院は生まれ育った場所を離れて就学する場合が多く、就職先も多様となるから、学業的な分野だけでなく、社会経験という点でも広がりを持つことになる。その結果、所得も相対的に高くなりやすい。
情報革命が引き起こす変化
さらに、この動きを加速させているのがインターネットが引き起こした情報革命である。
産業革命によって、社会の中心は農村から都市へと移ったが、その動きは基本的に同一国内や文化圏を主体としたものだった。しかしながら、現在進行中の情報革命では、人々は容易に国境を超えるし、必ずしも大都市が中心という世界ではなくなっている。
この世界では、多様な人種、文化、宗教、価値観が混在するようになっている。一番の基礎には「普遍的な人権」があり、その上に乗ってくる様々な事柄は「多様性」というフレームで吸収しようというのが、現在の流れである。
これは、ある意味、ネットによって世界がフラットになった果実であるが、すべての人々の意識が、そのように変わったわけではない。昔ながらの価値観、あえて言えば、現在でも男尊女卑の方が、心地よいと思う人達は存在する。
もともと20世紀の社会には、かつての農業社会的な価値観を持つ人もいれば、製造業社会的な価値観を持つ人もいた。20世紀末に、情報革命が始まったことで、これらに加えて、サービス経済社会的な価値観を持つ人も社会に混在するようになってきている。従来型の社会フレームを大切にする人々と、性別、人種、文化を超えて多様性を併せ持つことが出来る人々が混在しているのが現代の社会だ。
これについて端的な指摘を行ったのが『 The Road to Somewhere: The Populist Revolt and the Future of Politics(David Goodhart, 2017)』である。同書では、イギリス国民が、自分自身の(チャレンジに基づく)経験とその結果に重きを置くことで、特定の場所や集団に強く依存せずにアイデンティティを確立できるAnyWhereな人々と、特定の場所や集団に帰属することでアイデンティティを確立するSomeWhereな人々に別れてきていることを指摘している。
社会的には、(ロジカルな)AnyWhereな人々の意見が溢れやすいが、実際にはSomeWhereな人々の方が多いとされる。
この指摘は、イギリスのEU離脱や、アメリカのトランプ大統領誕生を説明する理屈ともなる。
AnyWhereな人々が出てきた背景には、インターネットによって世界がユニバーサルに繋がれたことが大きな要因となっている。
SomeWhereとAnyWhereの対立
このAnyWhereな人々は、観光市場をリードする「多くの経験を持つ人達」とも重なる部分が多い。
様々な経験や、地域への来訪を通じて価値観が多軸的になるし、学歴や(多くの場合)所得も高いからだ。世の中的には「まだまだ」なのに、環境問題や性的マイノリティーへの対応が観光の世界、特に国際旅行や富裕層マーケティングにおいて求められることは、その証左と言えるだろう。
他方、人数的にはSomeWhereな人々の方が多い。当然、旅行先となる地域を構成している人々の大部分はSomeWhereな人々となる。彼らとしては、地域や組織の枠組み、秩序はとても大切なものであり、それを崩されることについて嫌悪感、危機感を持つことになる。
これは、情報革命の中で進行してきているAnyWhere VS SomeWhereという構図が、観光地では旅行者VS住民という構図で生じるということになる。
次代に向けて
現在、こうした分離と、そこから生じる対立は「社会的な分断」「格差」「二極化」といった様々な言葉で表現されている。
こうした問題が起きている理由について私は「情報革命の途中だから」と思っている。
おそらく、産業革命時にも、それまでの農業社会的な価値観を重視する人達と、都市に出て中産階級となっていくことを選択する人達との間に分断と対立はあったと思うからだ。この産業革命時の対立が、今でも完全解消されていないことを考えれば、ネットを背景に登場したAnyWhereな人々と、従来のSomeWhereな人々の対立も100年単位で続くことになるだろう。
ただ、産業革命から現代までを振り返れば、紆余曲折、後退はあるにせよ、大きな流れとしてはAnyWhereな方向に向かっていくのだと思う。
そう考えれば、観光地での旅行者VS住民との関係についても、地域そのものがAnyWhereな状態に変わっていくことで解消していけるのだはないかと思っている。
私の知人でも、AnyWhereだが、特定の地域にどっぷりと入り、そこに根を下ろし活動(事業)を行っている人はたくさんいる。AnyWhereというのは、別に、転居や転職をしまくるということではなく、自分自身の経験によって、自身を確立しているという意識や価値観の問題だからだ。
そういう人達が営んでいる事業は、非常に気持が良いし、良い仲間が多くいて、地域にも良い影響が広がっている。それだけ顧客の深層的なニーズに入り込み、高いレベルでサービスデザイン出来ると同時に、地域においても秀逸なパートナーシップが構築できるからだろう。
グローカルという言葉は、すでにバズワードとなってしまっているが、国際的な視野を持ちつつ、自身の足元となる価値観をしっかりともつということが、より重要となっていくのではないだろうか。