イベント実施に対する批判

大阪万博2025が、工事費高騰やら進行遅延などなど(控えめに言っても)炎上中にある。

大阪万博2025に限らずオリパラも反対意見続出だったし、コロナ禍での大規模イベントは軒並み反対の渦中にあった。コロナ禍においては、感染拡大を助長するという主張もあったので、大阪万博2025に対する風当たりとは異なる部分はあるが、集客イベントに対する風当たりという点では同様だろう。

こうしたイベントへの拒否反応が、社会的にいつ頃から起きたのだろうと思い返してみると、1995年の都市博(東京都)の開催中止が起点だったのではないだろうか。当時は、ネット世論は形成されていなかった(ネット普及前)が、「民意」によって、一度決まった公共事業が「止まった」ということに溜飲を下げた人々は多かったように思う。

もしかすると、これが、一つの成功体験となり、行政や首長などが決めたことに反対していく…という行動を広げていくことになったのかもしれない。実際、都市計画も、1990年代後半には「まちづくり」と名前を変えていくことになり、市民参加がうたわれるようになっていく。

これは、間違いなく民主的なことであり、望ましいことではあるのだが、現実的には、厳しい部分もある。それは、人は自身が経験したか、学習したことでなければ理解できないからだ。

私は、かつて(遠い昔)、都市再開発事業に関わっていた。いずれも、組合施行、すなわち、地域の地権者が主体となって計画をたて、資金を集め巨額の投資を行うものだが、構想に着手してから短くても10年かかり、(バブル崩壊もあったけど)多くは途中で頓挫していくものだった。

ただ、その10年あまりの議論、検討、立案の中で地権者は学習し、大いに経験を高めていく。そして、その経験と知識をもとに、開発後の施設を運用していくことになる。再開発組合が、その後「まちづくり会社」となっていったケースも多い。

2000年代になると、まちづくり、そして、観光まちづくりは全国に拡がっていくが、まちづくりが「動いている」と感じられるようなレベルに至るには、最低でも5年、多くの場合、10年程度の時間を要している。その初動期は、合意形成が進まないというのが常である。

経験すると評価が変わる

一方で、少し古くなるがFIFAワールドカップ2002は大いに盛り上がったし、愛知万博2005も中盤からは激混み状態となり、コロナ禍前のRWC(ラグビーワールドカップ)2019日本大会も、ラグビーは日本ではマイナーな競技であるにも関わらず、日本チームの活躍もあり、大いに盛り上がった。限定開催となったオリパラ2020も、フジロックも皆、開催してみれば、ポジティブな意見が社会に溢れた。

少し系統は異なるが、東京都の築地市場移転では、連日、メディアがネガティブな情報を発信し続けたが、計画通り豊洲に移った以降は、ほぼ何も言われなくなり、市場機能も機能した状態で推移し、観光客も訪れるようになっている。

これらに共通することは、構想/計画段階においては強い反対が出てくるものの、実際にできてみると、動いてみると評価は一変するということにある。

私は、この背景には、「経験したことがないことや、(学習成果としての)知識をもっていないことはわからない」ことに起因した現状維持バイアス、または、得るものよりも失うもののほうが強く感じてしまうプロスペクト理論が作用しているためだと考えている。

要は、現状を変える、新しい状況にシフトするということについて、強い抵抗感が出やすいのが普通だということだ。

さらに、日本に限定すればスパイト行動も確認されている。これは、「全体の利益、自身の利益を損ねる事になっても、行為に対する対価の序列を維持したい」という意識であり、特に、日本人は、この意識が高いという研究成果が出ている。この意識は、フリーライドの抑制など悪いことばかりではないのだけど、新しい取り組みを展開していく際には足かせとなる。なにをするにしても「利権が絡んでいるから」という指摘が出やすいからだ。

これに、認知的不協和に起因する自己奉仕バイアスが作用すると、他者が成功している、優遇されていることが、自分の失敗や冷遇に繋がっているという意識が強まり、さらに、スパイト行動を強化することになる。

現状に不満を感じなからも、現状維持バイアスが作用し、さらに、日本的なスパイト行動が付加されると考えれば、何か新しいことに取り組めば批判が蔓延することは当然だろう。

当事者≒社会ではなくなった

もう一つ、観光分野に限定して言えば、当事者となる人は、社会が思うよりも少ないという事実もある。

例えば、大阪万博2025は3000万人目標としているが、ほぼ確実に人数と来訪回数はパレート分布する。要は、3000万人回の7割≒2000万人回は、来訪実人数の3割程度で構成されるということだ。仮に、この3割(ヘッド)の人たちの平均来訪回数を5回/人とすると、2000万人回÷5回=400万人。この400万人の人たちが「面白い」と思えば、興行的には成立してしまう。なお、残る7割(テール)の平均来訪回数を1.2回/人とすると、1000万人回÷1.2回≒800万人。このテールには、140万人回と想定しているインバウンド客が含まれるから、国内市場で言えば実人数は1100万人程度。テールを含めても大阪万博2025の需要側の当事者となるのは、国民の1割程度でしか無いということになる。

また、本ブログでも何度か指摘しているように、宿泊観光旅行市場は、国民の3割程度でほぼ寡占されている。つまり、観光需要の当事者となるのは、国民の3割程度の人々となる。

このように、少なくても観光分野において市場のヘッドを構成する人たちは、とても限定されており、マジョリティ(過半数を超える)なんてことは、ありえない。今の当事者は、常にマイノリティだ。さらに、当事者自身も、開催前/開業前では認知は及ばないから積極的な支持をする人は限定される。その他の人々は、当事者ではないから、無関心となるか、スパイト行動に出てしまう。その状態で、フラットな世論調査をすれば(消極的な)反対が多くを占めることは、当然の帰結だろう。

一昔前であれば、大型イベントは、わかりやすいアイコン、旗印となり、人々の意識をまとめるのに有効であった。しかしながら、価値観の多様化が進み一つの旗印にまとまること自体が難しくなっている。さらに、メディアを通じた宣伝/広報がほとんど機能しなくなってきた一方で、「経験」は重要な意味をもってきているが、その経験をする人たちは一部でしかない。そして、その経験格差は着実に生じており、拡大傾向にある。

メガ・イベントの終焉

率直なところ、幅広い合意を得ることは非常に困難な時代となっている。問題を先送りし、新しいことはしないという選択肢が波風を立てない最善策だとも言える。そもそも、一部の人にしか評価をされず、いわゆる「国威の発揚」に繋がりにくい状況において、メガ・イベントを実施する意義はどこにあるのか?という問題も発生するだろう。

その上で、それでも公的組織が主体となりメガ・イベントを展開しようというのであれば、何を目的に、どのような体制、ファイナンスで行うのかについて明確なロジックと説明力を備えることが必要だろう。こうしたロジック構築や、説明力をもたず、なんとなくやってみよう、やるとなれば、皆、賛成してくれるだろうくらいの意識で展開してしまうことに問題があるように思う。

個人的には、オリパラにしても、万博にしても、その本体は赤字(=公金投入)であっても、それをきっかけとした関連投資の連鎖が起きることの意味は大きいと思っている。実際、東京の中心部は、オリパラをきっかけに官民共に多くの投資が入り、それが今日のインバウンド客の受け入れインフラともなっている。

また、オリパラ2020に続き、万博2025というのは、投資を継続する、持続的なものとしていくという観点から言っても好ましい間隔であったと思っている。この不透明な世の中において、数年先にメガ・イベントがあるということは、それだけで一つの灯台になりえるからだ。

本来、こうした事も含めて丁寧に説明していく必要があったのではないだろうか?

結果、大阪万博2025が非難の対象となってしまい、札幌へのオリパラ誘致も流れた今、その後、2030を展望した際の灯台が存在していない状況にある。やりようはあったと思うが、もはや、メガ・イベントを利用したテコ入れ、灯台づくりは機能しないと思うべきだろう。

ただ、常に変化していく社会への対応は進めていく必要がある。イベントが利用できなくなった今、必要とされるのは、より明確な方向性を示し羅針盤となるようなビジョンであると思う。観光の世界だけでも、これについての議論を積み重ねていくことが必要なのだと思う。

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