1990年代に遡るサスティナブル・ツーリズム議論

コロナ禍前、世界中の著名観光地は「オーバーツーリズム」に見舞われていました。

この背景には、ネットの普及や新興国でも経済成長などによって、国際旅行市場が増大したことがあります。それによって、需要が急速に増大したことがオーバーツーリズムとなったわけです。

コロナ禍後、各国、各地域は、コロナからの復興を考えつつ、オーバーツーリズムを再来させないような戦略を立てています。その象徴的な対策が、サスティナブル・ツーリズムであり、レスポンシブル・ツーリズムであるわけです。

実は、サスティナブル・ツーリズムという概念自体は1990年代前半には存在していました。実際、1993年には、その名の通り「Journal of Sustainable Tourism」が創刊されています。つまり、もう30年前からサスティナブル・ツーリズムは提唱されているのです。

このサスティナブル・ツーリズムという概念は、マス・ツーリズムという「テーゼ」に対するアンチ・テーゼとして出てきたものです。

概念が提唱される前の、1980年代は、ジャンボジェットによって海外旅行の敷居が下がったタイミングであり、大規模な「総合型」リゾート開発が展開されたタイミングでした。規模感は、2010年代と大きく異なるものの観光の急激な膨張が、各地に負荷をかけた時代だったということです。その状況の中、マス・ツーリズムを代替する観光としてオルタナティブ・ツーリズムが注目されるようになります。そして、人工物や観光用に創造されたサービスではなく、地域にもともとある自然環境や地域資源を利用した「ソフト・ツーリズム」に移行すべきという提唱が行われます(The Landscape Eaters/ Jost Krippendorf, 1984-1987)。これが、後にサスティナブル・ツーリズムへと繋がっていきます。

なお、エコ・ツーリズムやグリーン・ツーリズムも、オルタナティブ・ツーリズムの一つであり、同時にサスティナブル・ツーリズムの一つとなります。

3つに分かれる顧客セグメント

この時、なぜ、マス・ツーリズムが地域に負荷をかける観光(今日のオーバー・ツーリズム)となってしまうのかというメカニズムについての整理も行われています。観光活動そのものは、以前から行われていたわけで、量的な拡大があったとはいえ、現場で起きている衝突は、それだけでは説明がつかない部分も多かったからです。

ここで指摘されたのは、ある地域への来訪客数が増える際、量的な変化だけでなく、質的な変化も起きるのではないかということです。当時の研究者は、人々を3つのセグメントに分けて整理しました。それは、アロ・セントリック(allocentric)/ミッド・セントリック/サイコ・セントリック(psychocentric)3種です。アロ・セントリックは、冒険的で人がやらないことを率先して行うことに喜びを覚える人々。対して、サイコ・セントリックは、旅行に対してアクシデントを回避し予定調和的なことを求める人々です。ミッド・セントリックは、その中間。

実は、各種の市場調査においても、レアな行動を行う人々、現在ではあればテント・サウナとか、スキューバ・ダイビングなどを行う人々は、それだけをピンポイントに行っているのではなく、普通の温泉旅行とか、名所への観光なんかも行っていることが解っています。私が長らく調査しているスキー/ボードなんかは、その典型でもあります。

こうしたアクティブな人々は収入が高く、学歴が高く、社交性が高い傾向にあることも解っています。

以前、整理したように観光は経験値の積み重ねによって、その行動が変容することになります。そのため、若いうちから観光の経験値を上げてきた人々と、そうでない人々では、余暇に求めるものも、それに対する姿勢も大きく異なっていきます。

多くの人々は、観光旅行において、既にやったことがあるものではなく、新しいことをやりたいと思います。これはノベルティ・シーキングと呼ばれるプッシュ・モチベーションの一つです。

経験値の高い人々にとって「やったことがない」ということは、他の人々もやったことが無いことですから、必然的に先端的で希少な活動となり、冒険的なものとなります。他方、経験値の低い人々は、ある程度、社会的に普及したものを体験することになります。当然、それに合わせて旅行形態(例:FITか団体か)も変わってきます。

経験値の高い人々(アロ・セントリック)は、前述したように収入、学歴、社交性が高い人々であり旅行はライフスタイルに組み込まれた定常的な行動です。一般論となりますが、こうした人々は、地域に対して敬意を持ち、地域での行動もスマートなものとなります。例えば、ゴミをポイ捨てしたりしないし、夜中に酒を飲んで騒いだりしないでしょう。

対して、経験値の低い人々(サイコ・セントリック)にとって、旅行はレアな経験であり、一種のお祭りです。こうした人々は、悪意はなくても、旅行先の行動は野放図なものとなりやすい。しかも、彼らはアクシデントを避けるために集団化し、約束された経験を確実に体験できるよう特定の場所に集まりやすい。

オーバー・ツーリズム発生のメカニズム

さて、ここまで整理していくると、オーバー・ツーリズムが起きるメカニズムが見えてきます。

新しい観光地は、まず、アロ・セントリックな人々によって発見され、その魅力が形成されていきます。が、その魅力認知が拡がり、客数が増えていくと、客層はアロ・セントリックからミッド・セントリックへと拡大し、いずれ、サイコ・セントリックにまで至ります。その過程においてアロ・セントリックな人々は、大衆化してしまったその地域から離脱していくことになります。

つまり、客数の増加というのは、同時に客層の変化を伴うということです。そして、その変化は、地域に負荷をかける方向に向くものとなります。これが、オーバー・ツーリズムが生じるメカニズムです。

アロ・セントリックからミッド、サイコ・セントリックという変化は、いわゆるイノベーション理論においても提唱されている顧客層の変化です。製造業の場合、大衆化する(ラガード方向に推移する)というのは、単純に市場が拡がるという意味でしかありませんが、観光の場合は、その変化の中で客筋の悪化という副作用が生じるということです。

ただ、客筋が悪化しようとも客は客です。しかも、サービス提供する事業者からすると、サイコ・セントリック(ラガード)のほうが御しやすい。既に定型化されたサービスを提供すれば良いからです。対して、アロ・セントリックな人々は、人数が少ないし、何が響くのかも見えにくいため、対応が難しい。これは、本質的に事業者にとってはマス・ツーリズムが展開される方が好ましい関係にあることを示しています。

結果、事業者もマス・ツーリズムを焚きつけていきます。その延長線で生じるのがオーバー・ツーリズムというわけです。もちろん、コロナ禍前のオーバー・ツーリズムは、アジアを始めとする新興国での経済成長など需要規模が急激に増大するという背景があったことは、マスター・ピースでした。が、「観光客が短時間に増える」ということが、どういう意味を持つのかということについての理解が足りていなかったのも、また、事実でしょう。

なぜ30年忘れられていたのか

では、なぜ、30年前の教訓、概念がその後、活かされなかったのでしょうか。

その理由は、1990年代、マス・ツーリズムに対抗するオルタナティブ・ツーリズムとして提唱されたサスティナブル・ツーリズムが学術界での議論にとどまり、実業の世界に出ていかなかった、より率直に言えば反発を受け、潰されたことにあります。

サスティナブル・ツーリズムの基本は、市場を、アロ・セントリックに限定して維持しようということにあります。つまり、客数増を抑制し、経験値が高く、自立的で自律的な人々を対象とした観光を作っていこうという考えです。そして、これを具現化したものがエコ・ツーリズムやグリーン・ツーリズムとなります。

ただ、多くの観光地は既にサイコ・セントリックまでも取り込んでおり(だからこそ著名になっている)それらの需要も含めて経済が回るような所帯となっています。それをアロ・セントリックに限定するということは、多くの既存事業者に廃業を迫るのと同意であるため、選択し難い。そのため、サスティナブル・ツーリズムは、既存の観光地では無視され、かろうじて、まだ観光的な開発がなされていない場所において展開されるようになります。観光開発されていないところであれば、ゼロから「ソフトツーリズム」を展開することに関係者の合意を得やすいからです。

ただ、そうした後発地域であっても、一度、観光振興の動きが出て、観光客が訪れるようになってくると、より多く、より大きく、より高くしたいという欲求が出てきます。人が集まっていることをビジネスチャンスと捉える人は、地域の中にも外にも居るからです。その結果、規模は小さいながら、既存観光地と同様に、市場のセグメントはミッド、サイコ・セントリックへと推移していくことになります。そこに生じるのは、観光地化と揶揄される状況です。

残念ながら「新しく発見された」観光コンテンツが大規模化していき、中身が変質していく事例は、そこら中に転がっています。

実践されている地域もある

ただ、欧米、特に欧州では、少し異なる動きもあります。欧州も、フランスやドイツでのバカンス法制定、日本からの国際旅行需要増大、その後のアジア、ロシアからの国際旅行需要増大と、何度も需要の急増期を経験しています。これを受け、スペインやイタリア、そして、フランスの一部リゾートは巨大化してきました。特にスペインにおいては、安価なサン&サンド・リゾートとしてかなり無秩序な開発が行われてきています。その後、文化を基軸に付加価値創造に舵を切りましたが、コロナ禍前には、都市部のバルセロナが、民泊の増大によって、オーバー・ツーリズムの象徴的な場所となってしまいました。

が、欧州の中央部、スイスやオーストリアといった地域のリゾートは、何十年という時間軸で調和の取れた空間、観光との調和を維持しています。スペインなどとの違いは、量的な膨張をさせなかった(抑制した)ことにあります。これらの地域は、とても人気のリゾートであっても、大型の施設は作らず(作らせず)一定のキャパシティのまま推移してきています。人気に対して需要が限定的であれば、料金が上がる。そのため、そこの魅力を知っていて、高い費用を払ってでも滞在したいという人々が来訪することになります。こうした人々は、アロ・セントリックに重なる部分が多くなります。

これは、一般的な観光地成長パターンであるアロー>ミッドにセグメント拡張して市場を拡げるのではなく、アロ・セントリック内でのシェアを拡大(維持)することで、顧客数を維持増大させるという方向感になります。

その結果、マス・ツーリズム的な弊害は抑えられ、サスティナブル・ツーリズムが具現化されるようになっています。

ここで留意しておかないといけないのは、人気がないから客数が抑えられるのではなく、高い人気を持ちつつキャパシティ制限をかけ、同時に相応の価格設定を行うことで客数を抑えているということです。

誘引となる魅力、キャパシティ、プライシング。これら3つのバランスを取ることが「マス・ツーリズム弊害」を抑制する有効な手段となります。ハワイや、国内で言えば京都市は、この方向を明確に打ち出してきています。

そう考えると、実は、規模が大きければマス・ツーリズムとなり駄目という話でもないことがわかります。例えば、米国や日本のディズニーランド(ディズニーリゾート)は、膨大な客を集めていますが、それによって弊害が起きているということにはなりません。特に、米国のWDWは開放型で、一つの都市圏を形成していますが、もう何十年にも渡り調和のある地域経営がなされています。

ディズニーリゾートは、旅行経験によらず安全に快適に楽しめる場所であり、それこそサイコ・セントリックな人々を取り込むところです。それでも、マス・ツーリズム弊害が生じないということは、前述した「誘引となる魅力」「キャパシティ」「プライシング」のバランスが取れているからでしょう。サイコ・セントリックな人々が、アロ・セントリックな人々よりハレーションが多いとしても、それも含めて全体のバランスを取ることができれば、人数が多くても弊害は起きないという実例でしょう。

空間を含めたバランス制御が必要

日本において、この3つの要素を考えると、かなり厳しい状況にあることがわかります。

現在、DMOを中心に「誘引となる魅力」を創る方向にありますが、多くの地域には都市計画的なデザインがありません。また外部資本の参入についてのルールもありません。そのため、キャパシティをコントロールすることが出来ません。

結果、DMOが魅力創造に成功すると、その魅力に惹かれて新規投資が呼び込まれ、キャパシティが増大することになります。投資判断の基準は、どの企業も、そう大きく変わらないため、ある特定のタイミング、数年間に一気に新規投資が行われることになるのが常です。そうなると、(設備などで劣後する)既存事業者は需要獲得のため、サイコ・セントリック方向に対象市場を伸ばすことになり、価格を低下させます。

結果として生じるのが、マス・ツーリズム弊害であるオーバー・ツーリズムというわけです。

オーバー・ツーリズムは、人数の大小ではなく、地域とのハレーション問題。そのハレーションは「客筋」に起因するものであり、客筋は3つの要素のバランスで定まってくる。ポスト・コロナにおいて、オーバー・ツーリズム問題を再来させないためには、日本に欠けている「キャパシティ制御」に踏み込むことが重要だと、私は考えています。

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