「感染拡大は抑え込まれてきているが、自粛継続は必要」「生活様式の変容が必要」が、2020/5/1の専門家会議の見解だった(その他にもたくさんあるけど)。

そこでは、3月25日に「2」だった全国の実効再生産数は、宣言後の4月10日に、0.7に低下。東京は3月14日時点で2.6。その後、4月10日に0.5まで下がったという情報も公開された。

実効再生産数は、一人の感染者が何人に「感染」させるかを指標化したものであるから、1を超えている間は、感染が拡大していくし、1を下回れば感染は縮小していくことになる。感染拡大が抑え込まれていることは、数値でも確認されたということになる。

にも関わらず自粛継続が必要で、かつ、生活様式の変容が必要というのはどういう意味なのか。

そもそも、新型コロナは、感染者が近くにいたら感染するというものではない。
また、感染者と握手したら感染するというものでもない。
感染には3つのステップ(2つのルート)がある。

  1. 感染者からウィルスが、体外に放出される
  2. 放出されたウィルスが、飛沫状態で非感染者に取り込まれる(ルート1)
  3. 放出されたウィルスが、どこかに付着し、そこから非感染者に取り込まれる(ルート2)

感染原因を直接的に作り出すのは「1」であるが、これは、感染者がどれだけの期間ウィルスを放出するのかと、単位時間あたりの放出量の掛け算で決まってくる。

新型コロナの場合、2週間程度の潜伏期間があるとされるから、自覚症状が出るまでの2週間、放出しっぱなしとなる。また、新型コロナ・ウィルスは肺に存在するから、運動したり歌を歌ったりすれば、放出量は多くなるとも考えられるが、今回は、スーパースプレッダーの指摘はあまりないから、基本的に、個人差は小さいと考えられる。

放出されたウィルスが、非感染者に取り込まれる(感染拡大する)ルートは、2つ。飛沫感染と接触感染だ。

まず、感染者の咳やくしゃみによって放出されたウィルスが、飛沫(水分によってウィルスがコーティングされた状態)となって飛んでいき、それが非感染者の口や鼻を介して取り込まれてしまう飛沫感染。なお、普通の会話でも少量ではあるが飛沫は出る

もう一つは、飛沫が、なにかしらに付着し、その付着したところを非感染者が触り、さらに、その触った手から目や国などを通じて取り込まれてしまう接触感染だ。

なお、ウィルスは「呼吸(飛沫)」だけでなく、排泄物からも出るとされているが、通常、他人の排泄物を触る人は居ないだろうし、その付着先となる便器などを素手で触る人も居ないと考えられるので、大きな感染源とはならないと考えられる。

飛沫感染も、接触感染も、直接か関節かの違いはあるが、人と人の接触によって感染拡大する。ただ、感染ルートを考えれば、基本的に、以下の2つの対策を行えれば、感染は抑止できることも解る。

  1. フィジカル・ディスタンスをとる(飛沫感染の防止)
  2. 手洗いを敢行する(接触感染の防止)

飛沫は、通常会話より、咳やくしゃみの方が遠くまで飛ぶが、それでも2mくらいとされている。飛んでいる間にウィルスをコーティングしている水分が蒸発し、感染力を無くすとされる。そのため、原理的に、他者と2mの感覚を開けていれば、仮に、感染者が突然のくしゃみをしたとしても、非感染者が取り込む可能性は低い。

なお、乾燥したウィルスは、軽くなる分、空気中を浮遊することもある。そのため、いわゆる3密状態にあると、密集によってウィルスの放出量が多いことに加え、密着で人との距離が近いなかで、密閉されるとウィルスが俟ってしまい、それを取り込んでしまうとされる。また、密閉空間の湿気が高いと、ウィルスが水分補給出来るため、感染力を維持し続けるとの指摘もある。

これらは、いわゆる空気感染の可能性を示すが、3密が重ならなければ発生しないとされる。なお、この場合の密閉とは、空気循環のことであるから、オフィスビルとか飛行機、新幹線のように「窓が開けられない」から、密閉だという話にはならない。自然換気よりも、機械を使った強制換気の方が空気循環はしっかりされていると考えられる。

1人の感染者から放出されるウィルス量は変わらないのだから、緊急事態宣言以降、感染拡大が止まり、抑え込まれてきた原因は、ひとえに、自粛によって、フィジカル・ディスタンスが取られ、かつ、手洗いなどが敢行されたことにある。

このことは、同時に、フィジカル・ディスタンスの取組が弱まれば、また、実効再生産数は増大することとなり、時間経過と共に、感染者数は増えていくことになることも示している。

そのため、ワクチンが出来るまでは、フィジカル・ディスタンスを継続する必要がある。コロナとの闘いが長期化するというのは、そのためである。

観光と新型コロナ感染拡大

さて、こうした感染拡大のメカニズムを理解した上で、観光と新型コロナ感染との関係について考えてみよう。

まず、理解しておきたいのは観光活動と、フィジカル・ディスタンスは、本来、両立可能だということだ。そもそも、日常生活と観光活動の間に決定的な違いは存在しない。各種の行動において、しっかりとフィジカル・ディスタンスを取れば、原理的に感染は広がることは無い。

しかしながら、フィジカル・ディスタンスの重要性が指摘されても、感染拡大が急停止しないことが示すように、現実の社会においてフィジカル・ディスタンスを確保することは難しい。そのため、人と人の接触機会そのものを抑制しようというのが、ロックダウンなどの対応である。

このロックダウンは、基本、家から出ない、人と接点をもたないことが促されるから、居住地から離れ、かつ、訪問先での人との接点が多くなる観光活動は「もっての他」とされる。

さらに、観光は、人の行動がコミュニティを飛び越えるという点も問題となりやすい。コミュニティを飛び越えることで、感染者のいなかった地域に感染をもたらすリスクを高めるからだ。

実際、4月上旬、東京などから地方部への感染拡大が起きたが、物理的に、人の移動がなけば、こうした感染拡大は生じない。

ただ、これは主観だが、地方への拡大は単純に人の移動だけの問題ではないと思っている。

感染している観光客がいようと、地域内でフィジカル・ディスタンスが徹底されていれば、感染拡大は生じないからだ。

例えば、3月下旬、既に東京では、かなりフィジカル・ディスタンスが意識された対応が行われていたが、その時点で、地方部では、そこまでの緊張感は無かった。私の視点からみても「ちょっと、怖いな」と思う運営をしているところは多かったのが実状だ。

もちろん、旅先でハメをはずす観光客が「少なくない」のは事実だが、昨今のパチンコ問題が示すように、地域内だけに限定しても、規範を逸脱する人たちは一定量(多分、2割位)はいるわけで、観光客だけが特別ではないだろう。

終末映画のように、高い壁で外部と仕切り、安全なシェルターとして動くという選択肢もあるかもしれないが、その手の映画の結末は、たいてい、外部からどこかしらから侵入され、中に入られた場合を想定した防備をしていなかったことで、大損害を受ける…と相場が決まっている。

そもそも、どの地域も確認されていない感染者が存在している可能性はゼロではない。そして、地域内であっても、映画や観劇、コンサート、飲食などなど観光的な活動はあるし、そこで事業したり、働いている人たちも大勢いる。しかしながら、これらも全て「無くしてしまう」という選択肢は無いはずだ。仮に、そんなことをすれば、自殺者という形で、新型コロナ以上に、死亡者が出ることは「ほぼ確実」だからだ。

「観光活動の抑止と隔離」は、緊急避難的な意味はあるが、本質的な解決とはならない。

感染予防前提の行動様式へ

結局の所、どの地域も感染拡大が落ち着いてきた(=1日あたりの新規感染確認者数が数名程度で推移すること)後も、フィジカル・ディスタンスを徹底していくことが必要となる。

そして、その行動様式は、ワクチンが出来るまで続けていくことが必要となる。
そうしなければ、収束状態を維持することはできないからだ。

よって、その行動様式は、年単位で続けられるものでなければならない。

例えば、「お酒の提供を、夜7時までにする」という行動様式は、継続できるものなのか。否だとすれば、どうすればフィジカル・ディスタンスを確保できるのか。

そもそも、「お酒の提供」といっても、ラーメン屋でビールが出るのと、三ツ星のフレンチ・レストランでワインが出るのでは、客同士の距離も、店員と客との距離も、コミュニケーションの度合いも違う。

また、ホスピタリティ産業におけるフィジカル・ディスタンスは、事業者と顧客の相互の協力、協調が無ければ実現できない。

よって、個々の事業者において「感染拡大は抑制する(=フィジカル・ディスタンスは確保する)が、サービスも稼働させる」方法を、事業者と顧客の双方が協働して見つけ出し、対応していく事が必要となろう。

これを地域レベルに拡大したものが、別投稿の「出口戦略」となる。

すなわち、サービスデザインの変更、顧客の選別、そして、医療サービスの拡充の3点パックである。

この顧客側の行動に注目したものが、専門家会議のいう「生活様式の変容」となるだろう。

収束状態は勝ち取るもの

緊急事態宣言がいずれ停止されるだろう。しかしながら、緊急事態宣言が停止されても、ウィルスが撲滅されているわけではないから、元の世界に戻るわけではない。

その中で、一定程度の経済活動と感染拡大防止のバランスを取ることが望まれるが、社会はなかなか、そういう「バランス」を示すことが難しい。
立場によって「正しいこと」「正義」は異なるからだ。

そうした「正義」の衝突は、寛容さの喪失につながる。
すでに、そうした社会的な分断は、各所で生じ始めている。

県外ナンバーを阻害する。少しでも人が集まっていると腹が立つ。若者が高齢者を非難し、高齢者が若者を攻撃する。店員が客を怖がり、客が店員を不信をいだく。

そうした互いの「正義」の衝突を乗り越えて行かなければ、収束状態を得ることはできない。

未来は、既に、従来の延長線上にはない。

既に、我々はポスト・コロナに突入していると考えるべきである。
その新しい世界の中でのポジションを、良いものと出来るか否かは、これからの各地域、事業者の取り組み次第となる。

ここ数年、地方創生の文脈で観光は、ある種のヒーローとなってきた。

が、かつて、観光産業は、バブル崩壊というパラダイム変化の中で、大きくその地位を落とした。また、宿泊業は「水商売」とみなされ、熊本地震までは支援の枠外にも置かれていたし、ふっこう割のような社会的支援策も存在しなかった。

ポスト・コロナにおいて、観光が、引き続き社会的に好意的なポジションを得ていけるかどうかは、過去ではなく、これからの行動であると考えておきたい。

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「収束状態の獲得に向けて」に1件のコメントがあります

  1. はじめまして。
    株式会社L&Gグローバルビジネス/株式会社CHILLNNの大丸勇気と申します。

    いつも大変勉強させて頂いおります。

    示唆に富んだご見識、慧眼とても尊敬しております。

    御礼申し上げたくコメントさせて頂きました。

    これからもよろしくお願いします。

    くれぐれもお体ご慈愛くださいませ。

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