観光の世界において、常識的に語られることはいくつかあるが、その一つに「旅館が大型化し、宿泊客を囲い込んだために、街にあった店舗が潰れ、街の魅力がなくなった」というものがある。

確かに、少なくない著名な温泉地は、2000年代、疲弊した。
特に、かつて「奥座敷」と呼ばれた温泉地の衰退は深刻で、中心部に立地する老舗旅館が破綻、廃墟化することで街の雰囲気が一変してしまったり、鬼怒川温泉のように街ごと不良債権化したりと散々な状態だった。

この原因とされていたのは、以下のような事項である。

  1. (旅行会社が送客する)団体客への依存が高く、増えてきた個人客への対応力が弱い
  2. 個人客は、いろいろな施設が揃った大型旅館の中で過ごすより、それぞれの地域での街歩きを楽しむ傾向にある
  3. 温泉街には、かつては飲食店や物販店はもちろん、スマートボールや射的などがあったが、温泉旅館が、それらを内包してしまったために、皆、潰れてしまった
  4. つまり、個人客対応できない温泉街にしてしまったのは、巨大化した温泉旅館に原因がある
  5. さらに、その遠因は、団体客を受け入れしやすいように旅館の大型化を生み出した旅行会社にある。

これ、ロジックは通っている…ように見える。

ただ、このロジックが成立するには、旅館が大型化する前の温泉街は、街歩きが楽しい、コンパクトにワクワクするようなサービス施設が詰まった地域であったことが必要である。
現在のイメージで言えば城崎温泉とか草津温泉のような街が「どこにでも」あったことになる。

それが「3」の前提だからだ。

だが、はたしてそうだろうか。

戦後、観光の大衆化が始まるのは1950年代以降である。
当初は鉄道でつながった地域に人々が訪れるようになり、その後、1960年代になるとモータリゼーションによって国道や高速道路沿線へと広がっていく。

この時代の客層は、男性を主体とした団体「慰安」旅行である。
この客層変化が起きてくるのは1970年代。大阪万博を契機に、日本に「家族旅行」という観光形態が生まれ、急速に拡大していくことになる。

一方で、旅館の大型化は、1970年代くらいから起きていく。例えば、鬼怒川温泉の「あさやホテル」が、地上11階建ての「大型施設」を建設したのは1972年、1973年だ。観光市場の拡大にあわせて、施設を大型化していったことが伺える。

温泉「街」を、大型旅館が潰したというのであれば、1960年代くらいまでに、魅力的な街が出来ていることになる。

ここで2つの疑問がある。

まず、観光の大衆化が始まってすぐのタイミングであった当時であったのに、街ができていたのかという話。

例えば、鬼怒川温泉は、戦前から温泉地として機能していたが、1960年代頃の「街」は「あさやホテル」周辺だけである。現在の鬼怒川温泉「街」は、南側に大きく広がっているが、これは鬼怒川温泉駅が1964年に南側に移転した後のことである。つまり、そもそも「そこに街はなかった」。
さらに、その後の旅館は、もともと大型施設として新設されていくことになることを考えれば、大型旅館が街の魅力を喪失させた…というのは、適切とは言えない。

一方で、熱海や別府のように戦前より街を形成していた地域もある。
こうした地域の1960年代の航空写真を見ると「これが残っていたらなぁ」と感じさせる佇まいとなっている。

1964年当時の伊香保温泉(出典:国土地理院ウェブサイト)

そこで、もう1つの疑問が出てくる。
街が出来ていたとしても、それが「訪れてよし」の街であったのかということである。

前述したように、1960年代頃まで観光客といえば、男性客主体の団体慰安旅行となる。この時代に温泉地で、どんな「サービス」が提供されていたのか…ということを考える必要があるからだ。

1958年に廃止された「赤線」と、それら温泉街は、切っても切れない関係にあったことを考えれば、その様子は容易に想像がつくだろう。

そうした残照が残る地域に、1970年代以降、母となる女性や、小さい子供を連れた家族客が訪れるようになったわけだ。そのコントラストは、相当なものだっただろう。

現実的に考えて、とても家族客が、街を楽しく散策できるような状態にあったとは思えない。

宿泊施設としては、そういう街に顧客を積極的に出していこうとは思わないだろう。市場拡大の中で、新しい顧客を獲得するためには、安全で快適な滞在環境を自ら提供しようと思うことは当然の帰結であったと考えられる。

その後「街」のサービス施設が衰退していったことは事実であるが、それは大型化した旅館に需要が食われたとは断言できない。当時の街のサービス施設と、大型旅館では対象とするターゲット、ニーズが異なるからだ。

「団体客の2次会/3次会需要も旅館が囲い込んだ」とはよく指摘されることではあるが、男性主体の団体「慰安」旅行需要に対応したスナックやバーが、その後の多様化する団体客に対応できたのかといえば疑問である。

例えば、女性が一人旅をしても白眼視されなくなったのはバブル期以降である。それ以前は、「女性は一人旅をするはずが無い」というのが常識であった訳だが、なぜそれが常識だったのか。「普通の女性」がボディ・ガードになるような人も付けずに訪れるような場所ではなかったということだ。

さらに、1970年代後半になるとアンノン族と呼ばれる女性グループも旅行に参加するようになるし、1980年代には未婚男女も旅行するようになる(いわゆる婚前旅行)。

こうした対象セグメントの拡がりに、個人営業/零細資本の温泉街の個店が追随していくことは困難であったであろうことは、全国の中心市街地が、環境変化についていけなかったことを考えれば容易に想像できる。

むしろ、「街」のサービス施設が衰退した原因は、団体「慰安」旅行から派生する需要が縮小していったことが原因と考えるほうが適切だろう。

悪者を仕立てても前には進まない

高度成長期以前から存在していた温泉地において、街の雰囲気が変わってしまったことは事実である。
そして、そうした街において、旅館の大型化が同時平行ですすんだことも事実だろう。

ただ、では旅館が1960年代以前のように、小規模で単機能のままであれば、家族客や女性グループが街に溢れていたのか?といえば、そうではないだろう。顧客は、そこに行かなければならない義務は無いから、自分の嗜好にあったサービスを提供してくれる地域を選ぶだけだからだ。

家族客や女性グループにも訴求できる「楽しい街」を形成するには、宿泊業以外のサービス事業者も需要に対応して変化して行く必要があった。これは今でいうデスティネーション・マネジメント、または、観光地域づくりと呼ばれる取り組みであるが、1970年代、80年代に、それを実践することは至難の技であったろう。

こうした状況において、旅館を悪役に仕立てても、あまり意味がない。
根本的な原因は、個々の旅館の問題というよりも、地域レベルのマネジメントの問題だからだ。

さらに問題なのは、現在でも、こうした地域レベルのマネジメントの展開が広がってはいないということだろう。地域レベルでサービス機能の最適化を図ったり、公園や歩道などを管理したり、イベントを企画したりといった取り組みは、エリアマネジメントの一種となるが、都市部はともかく、観光リゾート地で展開されている事例はごくわずかであるからだ。

現在、観光リゾート地でエリアマネジメントが展開されていると言えるのは、長野県の小布施や、沖縄県の北谷町デポアイランドのように再開発(区画整理)をベースとした開発エリアにとどまっている。

観光リゾート地におけるエリマネのトップランナーと呼べるデポアイランド

インバウンド客も大きなセグメントとなり、個々の施設ではなくデスティネーションへの注目が高まっている現在、面的に全体最適で取り組みを進めていく重要性は、かつて無いほど高い。

既存の開発エリアにおいても、観光リゾート地におけるエリアマネジメントの取り組みが求められる。

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